THETA Data Basic?、あるいはトランスポートの力(下)

 オーディオ機材を換えたことによる音の変化を記述することの難しさは、その変化が具体的になにに由来するのかが特定できないことにある。とくに俺みたいな物理的・工学的素養のまったくない者にとっては、ある物理的な原因に由来した結果であるはずの変化を、あたかも「あらかじめ求められていた」変化であり、それが目的であったかのようにしか記述されないもどかしさといってもいい。
 いささか牽引付会ではあるが、この原因と結果の関係はあるクラシック音楽の演奏を批評したりする際の楽譜の存在に似ていないこともない。ベートーヴェン交響曲を演奏するためには、それが拠ってたつ楽譜の存在が不可欠だが、演奏解釈を云々するためにはその元となった楽譜(原因)を知らなければ、ある演奏解釈のちがいをある程度の蓋然性をもって批評することはできないという意味で。たとえば、楽譜の存在を無視すれば、まったく解釈のことなるフルトヴェングラーカラヤンの《エロイカ》の演奏をおなじ射程を持つ言葉を使って表現してしまったり、といった初歩的な認識の甘さが生まれないとは限らない。
 こと左様に、俺が書くオーディオの印象など、それに近いことをやっているに違いない。……などと、言い訳したのは、THETAのトランスポートをシステムに組み入れた音の変化なんかをメモしていたら、どれもいままである機材について書いたり感じたりしてきた変化と、メモするのが虚しいくらい同じ言葉だったりするからだ。けっきょく、人が自分が知りたいものしか知りえないように、自分が求めたい変化しか知覚できず(聴きわけることができず)、たとえ同じ言葉で意味される変化の内実とか強度がちがってはいても、その違いは感覚的な実体としてあるにすぎないということを思い知らされるだけなのだ。
 たとえば、そのメモをいくつか列挙してみると。
・ホールの大きさ、楽器の大きさ、ピアノの鍵盤の位置まで見える感覚。
・奥行きの深さ。これまではスピーカの横の線から後ろに展開していたが、前にも後ろにも展開する(音像が浮き上がるような立体感)。
・音の密度と空気感の両立。
・音離れのよさ、聴覚上の静寂感。ボリウムを上げても決して耳障りな音にならない。
・小音量でも音痩せしない。高域と低域のバランスも保たれる。
アーティキュレーションに内在する一瞬のリズムの変化や跳躍を再現する反応の速さ。
・とくに、管楽器の存在感の確かさ。
などなど。。。どれも、どこかで書いたようなことばかりだ。
 しかし、ここでふと立ち止まって考えた。「書いたようなことばかりである」ことは、裏を返せば「そのどれもが質的に向上している」ということでもある。つまり、音の入り口であるトランスポートの情報伝送能力が圧倒的に向上したことで、トランスポート以下の機材に本来備わっていた潜在力が顕在化したのではないか、ということ(もちろん、トランスポートにも個性はあるだろうが、レファレンスとなるトランスポートを知らないから、そういう結論になるのだが)。いいかえれば、個々の音の再現性云々じゃなくて、根本的に情報量のケタがちがうってこと。
 こういう喩えはどうだろう。
 ちょっと幼さの残るある女の子と会うたびに、彼女はおとなの化粧を身につけ髪形を変えて現れ、シェイプアップしてボディを磨いたり、シャネルのスーツを着込んだりしていて、たしかにどんどん綺麗になってきた。しかし、1年ぶりくらいに会ってみたら(なんで1年も会わなかったかなど、ここではどうもよい/笑)、最後に会ったときと同じコーディネートなんだけど、まったく別人のように、彼女がかもし出す雰囲気から幼さが消え、すっかりおとなの女に変身していた…みたいな。
 取り止めがないことばかり書いている気がするので、ちょっと目先を変えて。
 チャイコフスキーの《悲愴》交響曲を聴いていたときのこと。この曲の第4楽章の冒頭の有名な主題は、じつは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで旋律線を弾き分けている。つまり、第1ヴァイオリンだけ聴いても第2ヴァイオリンだけ聴いても旋律は聞こえないように書かれている。チャイコフスキーは、悲壮な主題をあえて2つのパートに分けることで、演奏者が過度に感情移入してしまうことを避けたと解釈できる。ふつう、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは舞台の右側に扇型に並んでいるので、生の演奏会でも前のほうの席でよほど注意して聴いていないと弾き分けていることはわからない。これまで、どのCDで聴いても聴き取れなかったその弾き分けが、THETAのトランスポートでは聴き取れるようになったのだ。これには驚いた。
 もう一点。モーツァルトのピアノ協奏曲(23番)を聴いていたときのこと。これは上で書いた「鍵盤の位置まで見えるよう」と書いたことに関連するが、第2楽章のコーダの部分を聴いていたら、本来なら左から右に聴こえなければならないピアノの2つの音の移動が、逆に右から左に移動した。そんな部分まで再現されちゃうのかよ、という感じだが、もちろんこれは部屋の定在波のしわざ。おかげで、スピーカの位置を数センチずらしたり内振りの角度をちょっとだけ変えたりというセッティング調整をすることができた。ふむ、こんなわずかでも効果はあるものだ。

 とまあ、いまのところ以上のようなところ。
 付け加えれば、トランスポートをつなげて音出ししたときは、高域がおとなしい感じに聞こえたのだが、これはいたずらにフラットな高域特性を狙うことで、再生される音のリアリティや響きの正確さを犠牲にすることを避けた結果のようにおもう。実際のホールでは高域はそんなフラットには聞こえないし。
 気に入らないところがあるとすれば、唯一リモコンが本体に比べて安っぽいところか。それにブラックパネル仕様もあるからなのかもしれないが、このシルバーパネルに黒いリモコンはないだろう。あと、トレイの開閉が滑らかでなく意外に大きな音がするのが気になるといえば気になる。こういう部分は国産の普及機のほうが使い勝手がいい。SONYのCDP333ESDなんて、ほれぼれするくらいの滑らかさだし。