運転免許と携帯電話

 多くの人が持っているのに自分は持っていないもの、逆にあまり人は持っていないが自分は持っているもの、あるいは人が価値を見出すものに自分は価値を見出さないとか、人がどうでもいいものに価値を見出したりすることというのは、誰でもあると思う。それが差異化された記号的消費物だったりすると一気にオタク道に進むことになるが、ここでいうのは、一般の社会生活を営むうえで必要だったりするもののこと。
 たとえば、俺はクルマはおろか運転免許すら持たない。免許だけならば学生時代に取得する機会はあったが、その金があれば何冊の本とLP(CD が出る少し前だった)が買え、何回友人と酒が飲めるか、なんてことを考えたらバカらしくなったのだ。「クルマでどこか連れていってくれなければイヤよ」なんて女の子はこちらか願い下げだったし(笑)。 結局その金は、修士時代に丸2か月かけてヨーロッパの主要美術館をめぐるという計画のための資金になったわけだが、その経験はその後の自分の財産にはなったと思う。それに、仕事を始めてからも首都圏に住んでいれば、商用で使わない限りクルマを持つ必要がないし、かえって邪魔になる。学生時代に第二次オイルショックなんて経験したために、地球環境や首都圏の交通事情などにも少しは関心もあったせいもあるだろう。
 どうせなら、自宅をリフォームする際にソーラー発電の設備もしたかったが、まだまだお高かったので見送った。

 運転免許とクルマを持たない経緯を書いた次は、携帯電話。じつは、その話を書くために長い前置きを書いたのだ。
 といってもMobile Phoneがなかったわけではなく、ずっとPHSを使っていたのである。できるならそれすらも持ちたくなかったのだが、さすがに仕事上あったほうが都合がよかったので10年ほど前から使っている。なぜPHSにしたかといえば、通話料が安いとかいう問題ではなく、どうせなら将来的にも通話とデータ通信以外の可能性のないPHSにしようという天の邪鬼的な発想である。パソコンでできることはパソコンでやればいいし、とにかく電車内や町中でケータイを使っているのを見るのが気に入らなかったのである(いまでもそうだが)。
 ところが、先の日曜日、ついにその牙城を崩してしまった。「携帯電話が必要だ」という息子の要望に対して、PHSを納得できる形で選択させることができなかったのである。パソコンにしろ通信機器にしろ、仕事で使う以外の機能についてはまったく無関心で、結局PHSもH"機能がありながら通話にしか使わなかった。それではさすがに、息子を絶滅危惧種PHSを持つことの価値や意味を彼の周囲に語るだけの情報は与えられない。「親がPHSにしろと言ったから」では中3としてはあまりに情けないではないか。

 閑話休題
 ところで、なぜ息子が携帯をほしがったかと言えば、個人情報保護法なんてもののために、組織的な連絡網がつくれず、クラブの連絡事項がなかなか伝わらないためである。ちなみにクラス連絡網もないという。ひどいものだ。私立中学ですらそうなのだから、公立中学はもっと制約が大きいんだろうな。これについては山ほど言いたいことはあるが、話題がそれるので先を急ぐ。

 というわけで、俺だけがPHSというのも不経済だということで、家族全員がDOCOMOFomaユーザになってしまったのである。
 近所のDOCOMOショップに初めて入って驚いたのが、番号札をとって電光表示される窓口で用を受け付けるという銀行みたいなシステムであること。しかも、4月ということもあって窓口が5つもあるというのに待ち時間が1時間! ちょっとしたカルチャーショック。
 いつも思うのだが、身分証明というのはなんでいつも「運転免許を見せていただけますか」と、あたかもそれを持ってることが当たり前のように言い切るんだろう。そのときの受付の女子社員も「わたしも妻も運転免許は持っていません」といったら、一瞬すごくヘンな顔をした。「PHSから携帯に替えたいんですが」といったときも、怪訝そうな顔をしたしね。「免許もクルマも持ってない、しかもいまどきまだPHSしか使ったことのない奴と契約しても大丈夫だろうか」って心の乱れがミエミエ。たしかに、ADIDASの白いスウェット・スーツを来た決してまともなサラリーマンには見えないひげ面の中年男は、とても貧相に見えたかもね。それはそれでまた悲しいが(笑