アイドルの死

Waldstimme2007-08-21

 自分にとってアイドルだったといえるひとは、たぶんそのひとだけだ。そのひとを初めてみたのは、彼女がデビューしてからもう5年もたってからで、ある映画の中。その映画は大学の友人の従兄弟が音楽を担当していて、その友人がわたしにその映画と音楽のサントラが出来上がったんで、作品と音楽についてなにか文章を書いてほしいと言ってきたのだった。古井由吉の第64回芥川賞受賞作『杳子』(1970)を1977年に映画化した作品で、そのひとは心を病んだ主人公の杳子を演じていた。
 そのひとが画面に姿を現したときの強烈な印象はわすれられない。幽霊に魅入られた瞬間というのはまさにこういうものなのだろう。不確かさこそが放つ鮮やかな存在感と様式美を備えた身振り。前後関係ははっきりしないけれど、この映画と同じ年にそのひとは「ニューズウィーク」誌で世界のトップモデル6人に選出されたと人から聞いて、初めてそのひとがモデルだということを知った。
 あるひとは、そのひとの存在はつくられたオリエンタリズムだと批判したが、わたしはそうはおもわない。たしかにそのひとを一躍有名にした資生堂のポスターは外国人のカメラマンによってある種のエキゾチシズムを強調され撮影された。しかし、そのひとのもっている美意識をオリエンタリズムと解釈するのは見る側の審美眼にすぎない。たとえば80年代になってそのひとが天児牛大の「山海塾」や勅使河原三郎と行なったダンス・パフォーマンスで見せた舞踏のどこにオリエンタリズムがあるというのだろう。

 そんなわたしのアイドルが57歳の若さでで亡くなった。しかも、だれにも看取られずに独りで。最期まで現実的な肉体の存在を感じさせないなんて…。
 わたしがまえにもあとにも駅張りのポスターを盗んだのはそのひとのポスターだったということからだけでも、そのひとはわたしにとっては唯一のアイドルだった。
 ご冥福をお祈りいたします。

THETA Data Basic?、あるいはトランスポートの力(下)

 オーディオ機材を換えたことによる音の変化を記述することの難しさは、その変化が具体的になにに由来するのかが特定できないことにある。とくに俺みたいな物理的・工学的素養のまったくない者にとっては、ある物理的な原因に由来した結果であるはずの変化を、あたかも「あらかじめ求められていた」変化であり、それが目的であったかのようにしか記述されないもどかしさといってもいい。
 いささか牽引付会ではあるが、この原因と結果の関係はあるクラシック音楽の演奏を批評したりする際の楽譜の存在に似ていないこともない。ベートーヴェン交響曲を演奏するためには、それが拠ってたつ楽譜の存在が不可欠だが、演奏解釈を云々するためにはその元となった楽譜(原因)を知らなければ、ある演奏解釈のちがいをある程度の蓋然性をもって批評することはできないという意味で。たとえば、楽譜の存在を無視すれば、まったく解釈のことなるフルトヴェングラーカラヤンの《エロイカ》の演奏をおなじ射程を持つ言葉を使って表現してしまったり、といった初歩的な認識の甘さが生まれないとは限らない。
 こと左様に、俺が書くオーディオの印象など、それに近いことをやっているに違いない。……などと、言い訳したのは、THETAのトランスポートをシステムに組み入れた音の変化なんかをメモしていたら、どれもいままである機材について書いたり感じたりしてきた変化と、メモするのが虚しいくらい同じ言葉だったりするからだ。けっきょく、人が自分が知りたいものしか知りえないように、自分が求めたい変化しか知覚できず(聴きわけることができず)、たとえ同じ言葉で意味される変化の内実とか強度がちがってはいても、その違いは感覚的な実体としてあるにすぎないということを思い知らされるだけなのだ。
 たとえば、そのメモをいくつか列挙してみると。
・ホールの大きさ、楽器の大きさ、ピアノの鍵盤の位置まで見える感覚。
・奥行きの深さ。これまではスピーカの横の線から後ろに展開していたが、前にも後ろにも展開する(音像が浮き上がるような立体感)。
・音の密度と空気感の両立。
・音離れのよさ、聴覚上の静寂感。ボリウムを上げても決して耳障りな音にならない。
・小音量でも音痩せしない。高域と低域のバランスも保たれる。
アーティキュレーションに内在する一瞬のリズムの変化や跳躍を再現する反応の速さ。
・とくに、管楽器の存在感の確かさ。
などなど。。。どれも、どこかで書いたようなことばかりだ。
 しかし、ここでふと立ち止まって考えた。「書いたようなことばかりである」ことは、裏を返せば「そのどれもが質的に向上している」ということでもある。つまり、音の入り口であるトランスポートの情報伝送能力が圧倒的に向上したことで、トランスポート以下の機材に本来備わっていた潜在力が顕在化したのではないか、ということ(もちろん、トランスポートにも個性はあるだろうが、レファレンスとなるトランスポートを知らないから、そういう結論になるのだが)。いいかえれば、個々の音の再現性云々じゃなくて、根本的に情報量のケタがちがうってこと。
 こういう喩えはどうだろう。
 ちょっと幼さの残るある女の子と会うたびに、彼女はおとなの化粧を身につけ髪形を変えて現れ、シェイプアップしてボディを磨いたり、シャネルのスーツを着込んだりしていて、たしかにどんどん綺麗になってきた。しかし、1年ぶりくらいに会ってみたら(なんで1年も会わなかったかなど、ここではどうもよい/笑)、最後に会ったときと同じコーディネートなんだけど、まったく別人のように、彼女がかもし出す雰囲気から幼さが消え、すっかりおとなの女に変身していた…みたいな。
 取り止めがないことばかり書いている気がするので、ちょっと目先を変えて。
 チャイコフスキーの《悲愴》交響曲を聴いていたときのこと。この曲の第4楽章の冒頭の有名な主題は、じつは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで旋律線を弾き分けている。つまり、第1ヴァイオリンだけ聴いても第2ヴァイオリンだけ聴いても旋律は聞こえないように書かれている。チャイコフスキーは、悲壮な主題をあえて2つのパートに分けることで、演奏者が過度に感情移入してしまうことを避けたと解釈できる。ふつう、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンは舞台の右側に扇型に並んでいるので、生の演奏会でも前のほうの席でよほど注意して聴いていないと弾き分けていることはわからない。これまで、どのCDで聴いても聴き取れなかったその弾き分けが、THETAのトランスポートでは聴き取れるようになったのだ。これには驚いた。
 もう一点。モーツァルトのピアノ協奏曲(23番)を聴いていたときのこと。これは上で書いた「鍵盤の位置まで見えるよう」と書いたことに関連するが、第2楽章のコーダの部分を聴いていたら、本来なら左から右に聴こえなければならないピアノの2つの音の移動が、逆に右から左に移動した。そんな部分まで再現されちゃうのかよ、という感じだが、もちろんこれは部屋の定在波のしわざ。おかげで、スピーカの位置を数センチずらしたり内振りの角度をちょっとだけ変えたりというセッティング調整をすることができた。ふむ、こんなわずかでも効果はあるものだ。

 とまあ、いまのところ以上のようなところ。
 付け加えれば、トランスポートをつなげて音出ししたときは、高域がおとなしい感じに聞こえたのだが、これはいたずらにフラットな高域特性を狙うことで、再生される音のリアリティや響きの正確さを犠牲にすることを避けた結果のようにおもう。実際のホールでは高域はそんなフラットには聞こえないし。
 気に入らないところがあるとすれば、唯一リモコンが本体に比べて安っぽいところか。それにブラックパネル仕様もあるからなのかもしれないが、このシルバーパネルに黒いリモコンはないだろう。あと、トレイの開閉が滑らかでなく意外に大きな音がするのが気になるといえば気になる。こういう部分は国産の普及機のほうが使い勝手がいい。SONYのCDP333ESDなんて、ほれぼれするくらいの滑らかさだし。

THETA Data BasicⅡ、あるいはトランスポートの力(上)

 トラポがボトルネックだろうと書いたのが、ちょうどひと月まえ。とはいえトラポの力は未知数なこともあり、正直いってその効果は予想がつかないものだった。サプでごくたまに使うTEACのCD-5にしたって、けっして観賞用に神経を使って聴いているわけじゃないし、ARCAMのCD82Tじたいこのクラスとしてはかなり精度の高い読み取り能力をもっているとおもうので、CD-5程度のCDPと比べてトランスポートの能力を云々すること自体がナンセンスだ。仕事部屋のSONYのCD333ESDにしたって状況は同じ。つまり、すくなくとも自宅のシステムではという限定がついても、まだ真の意味で“トランスポート”の力を知らないといえるわけだ。
 そんなこともあって、トランスポートの導入にはなかなか踏み切れなかったのだけど(もちろん金がないことがもっとも大きいことは言わずもがなだ)、ついにヤフオクのUSEDだが導入に踏み切っり、それが先週の金曜に届いた。
 THETAのData BasicⅡ 

 ウォッチしていたものの最終的な踏ん切りはつけられずにいたところに、トラポを探しているならということで、khimairaさんがまさにその出品を「こんなのありまっせ」と知らせてくれてことに、結果として背中を押された格好だ。khimairaさんは以前、モデルチェンジをするまえのData Basicを使っていた経験があったそうで、とくにジッターの軽減精度の優秀さについて教えていただいた(シッター処理にデジタルプロセスを用いずメカニカルにアナログ的に追い込んでいくという姿勢も高く評価されていた)。なんでも発売当時はジッター制御は世界一を誇っていたそうだ。もちろん、俺など詳しいことはわからないんだけど、時流に反してまでそういう手のかけ方をした製品ということに、ひじょうに興味を引かれたわけだ(こういう部分に弱いかも/笑)。おかげで、軽く予算オーバーで、もう逆立ちしても屁も出ない。
 届いた製品は大切に扱われていたようで傷ひとつなく、出品者の方とのやり取りのなかからも問題なく使い続けることができる個体であることも納得できたのでひとまず安心。ま、万が一トラブルが生じてもステラのメンテナンス対象リストにもあがっているので、Philipsのスィングアームメカ(CDM-4)がいかれない限りだいじょうぶだろう。
 というわけで、以前のシステム構成図はこのようになった。グレー表示部分は現在ショートカットしている。(なぜか、以前の構成図のほうはちょっと手を加えたらアップロードできなくなってしまった)

 で、肝心の音のほうだけど、これまでの変化とは質的に大きく違うので、インプレは数日中にアップします。

Latest System

 先日(23日)、kurokawaさんが8ヶ月ぶり(くらいだと思う)拙宅にお見えになった。おもにパワー・アンプの入れ替えとプリのupgradeによる音の変化を聴いていただいたわかだが、その試聴記はすでにご自身のblogにあげられているのでそちらを参照いただいたほうが、客観的な判断をしていただけるとおもう。
 そこで現在のうちのシステムについては"こちらを参照"とあるので、現状のメイン・システムをチャート化してみる。

 最近はこのシステムで固定している。あらためてチャート化してみると、やはりトランスポートとして使っているCD-82Tあたりがボトルネックになっている気がする。Mike Elliottの公認を受けているAria Club Union JPの管理人vinさんにさんざんお手間をおかけしてアップグレードしたSA-5.1は、おかげで分解能がかなりあがっているし、DualMono構成のEW100は重心の低い傾向はあるものの分解能自体にまったく問題はないので、kurokawaさんがお感じになった「情報量」の陥穽もこのあたりに原因があるのではないかとにらんでいる。
 「LinnのMagik CDなどいかが?」なんてkurokawaさんはあとで言っていたけど、そりゃあ傾向としてもフィットする可能性は高いし、能力的にも高いことは間違いないが、価格的にもかなりお高いのでいまはゼッタイ無理。適当な価格でスリムに引き締まった高解像度な傾向のトランスポートを気長に探してみるつもりだが、それすらいつになることか。
 
 

Camelot Technology/TAP-3

Waldstimme2007-06-22


 必ずしも必要ではないものを衝動的に欲しくなってしまう物欲が抗いがたくある。いつ読むかわからない本、とりあえず手元においておきたいCD、けっしていまの音に不満を持っているわけでもないのに、どこかいじりたくなってしまうオーディオ機材…。これに女性なんかが加わったら身の破滅は間違いないな。
 いま使っているオーディオ用のタップ(Chikuma CPS-220)だって、コンセントをグレードの高いものに交換したり(Acouistic Revive:CCR-DX,Leviton8300-cryo)内部配線財を純銀線+オーグラインに付け替えたりして、じゅうぶん手をかけて性能的にも満足しているのに、こんなものを手に入れてしまったのは、このデザインが好きだからこの意匠を所有したいという欲望のほうが大きいかもしれない。音について気になるところがあれば、構造的に改良する手段はいくつかある。
 冷静に考えれば、もっとほかにが所有すべきものは(メンタルなものも含めて)いくらでもあるし、そのためにやるべきことは課題として山ほどあるのだが、しかし、過剰な消費というタナトス的欲望とはなんと甘美なことよ。

XRCD

 最近話題のXRCDとやらを聴いてみた。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2570174
 サンプリングの仕組みとかなんとかCD解説の最後に書いてあるが、読んでも原理はよくわからない(技術屋が書く文章は技術屋にしかわからないように書いているのだろうか)。
 結果として再生される音は、たしかにすばらしい。このマタチッチのブルックナーのCDも、一般フォーマットのCDと比べて音の情報量が格段に増えているし、CD臭さがほとんど感じられない。1967年の録音だが、まったく古さは感じさせないばかりか、音の質感は最新録音以上だといっていいとおもう。SACDにも比せられるクオリティという触れ込みだが、たしかにハードを買わなければ再生できないSACDに比べれば、一般のCDPでも聴けるというメリットは大きいかもしれない。つくりも凝っていて、角背の上製本風の見開きジャケットで、LPのようにポリエステルの内袋入りで高級感もある。
 しかし、CD1枚で収まる曲なのにわざわざ2枚組にして小売価格も4200円と高価。サンプルでいただいたものだから聴いてはいるが、たぶん自分じゃ買わないだろうなぁ。CD1枚にして価格を半分にすれば飛びつくが、できるはずのことをやらないのは、市場原理というやつだろうな。