たまには絵画の話でもープラド美術館展のポスターから


「ヴィーナスとオルガン弾き」、いうまでもなく「ウルビノのヴィーナス」と並ぶティツィアーノの代表的なヴィーナス像である。現在、国立西洋美術館で開催中の「プラド美術館展」のポスターにも使われているので、首都圏の人ならば美術に興味の薄い人でも駅の構内や電車の社内広告などで必ずお目にかかっているはずだ。(その後、大阪展もあるのでそちらでも同じ絵が使われているかも)
 ところで、この「ヴィーナスとオルガン弾き」だが、これって公然と駅に貼られるようなポスターなのだろうか。ヴィーナスということにはなっているが明らかに裸体像である。ま、それは「ヴィーナス」ということでタダの裸体ではないという言い訳は立つ。ケネス・クラークが裸体画論「ザ・ヌード」で示したように、裸体画モデルは自らが裸体を晒している(闖入者の存在がない)がゆえに美であるともいえる。しかし、クラークの論を敷衍していえば、週刊誌のヌード・グラビアも美の範疇に入ることになるが、そのことはここでは置いておく。問題なのは、左側の着衣姿のオルガン弾きである。彼は何をしているのだろうか。たしかに両手を鍵盤に添えてはいるが、その指は音楽を奏でているようには見えない。ヴィーナスの指の繊細な表情の描き方からすれば、もし彼が音楽を奏でているならばもっと指に動きがあるように描かれるはずだ。じゃあ、ヴィーナスと会話しているのか? ヴィーナスの表情をみれば一目瞭然、それもちがう。では何をしているのか? オルガン弾きの視線は、明らかにヴィーナスの陰部に向けられている。*1 つまりこの絵画は、オルガン奏者がヴィーナスであるとされる女体を視姦しているともみることができるのだ。*2 たしかに、現代のわれわれにとっては、その事実の淫微さやエロティシズムを換気させるにはインパクトが弱い。だが、これと同じ構図を現代の構図に置き換えてみたらどうだろうか。もちろんアトリビュート(その絵画のテーマに則して付加されるオブジェのようなもの。たとえばダヴィデならフィドル=ヴァイオリンとか、オルフェウス=竪琴とかいったもの)や状況は同じではない。たとえば現代なら"萌え系"の少女がメイド姿でベッドに横たわって胸と下半身を晒し、オタク系の若者がオルガンならぬコンピュータのキーボードに手をのせて少女の陰部に視線を集中させるというのでもいい。それのポスターが公然と街の中や電車内に貼られていたらどうだろう(もちろん、そのメディアは写真―あるいはアニメ―でなければならない。ティツィアーノの時代にはもちろん写真はなかったゆえに絵画という手段で視覚的快楽を表現したのだから)。*3
つまり、ティッツィアーノのヴィーナス像が当時の貴族の寝室に飾られていたことと(スペイン王室のコレクションになったのは後代のことだ)、"萌え系"少女のエロ写真がオタク系青年の寝室に飾られていることの距離は、思いのほか短いのだ。それが、いまでは絵画という制度の中で「名画」として、公然と地下鉄の駅のポスターになっているということを、われわれはもっと意識してもいい。
たまたま、プラド美術館展のポスターにティッツィアーノの「ヴィーナスとオルガン弾き」が使われていて、それがかなりの露出量で目を引いたので、書いてみたのだが、このような視覚的快楽と美術史を成り立たせている制度というのは美術史分野でもけっこう重要なテーマになっている。じつは、できれば今年中にこのテーマの本を一冊上梓すべくある著者と画策中なのである。*4

*註の2を追加しました。

*1:じつはこのことは面白い個人的なデータがあって、女性は一般的にオルガン奏者の視線は陰部に向いてるとは見えていない傾向があるらしい。ヴィーナスの顔を上目遣いで見ているとか、腿を見ているとか…。これも本題からすればひじょうに興味深い傾向なのだが。

*2:つまり、オルガン弾きの視線はこの絵画を見る鑑賞者(少なくとも男性の)の視線に重なるのだ。鑑賞者の視線を絵画の中に描く手法はバロック時代の絵画によく見られる。ベラスケスの「ラス・メニーナス」の画家の視線や、ファン・アイクの「アルノルフィーニ夫妻像」の鏡の絵などもその応用だ。

*3:このことを逆手に取って森村泰晶は、歴代名画の状況をそのまま再現して自らが"見られるもの"となるべく絵画の描かれた対象に変装し、その写真を「作品」として提示することで彼自身が美術という制度のギミックになった。

*4:話はそれるが、ある作品がそのテーマの如何によらず美術史上の制度によって「名画」とされることで、ハイカルチャーの刻印を押される構図は、クラシック音楽と似ていないか。