暇つぶし

仕事はなんとかやっつけた。が、泣きを入れた当人は終わったらオヤスミモードで、もう寝息を立ててやがる。徒然にid:mandanaさんのblogを読んでコメントを書いたら、急に懐かしくなって以前に書いた文章を読み返した。1990年のものだ。
http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7872-7019-2.html
「廃墟としての音楽」なんていま思えば大仰なタイトルだが、都市の原風景としてのノイズをインタフェースとして、主に20世紀の廃墟感覚と音楽を結び付けて書いたものだ。戦争と破壊、テクノロジー的身体とその崩壊のイコンとしてのノイズ・ミュージック。いま捲ってみると、読みの浅さが恥ずかしいが、当時は、ぜひとも自分なりに整理したかった問題だった。ちょうど、この本が出版されたあたりから、ポスト・アヴァンギャルドも勢いを失って、ハウス系のダンスミュージックに収斂されはじめてしまったので、それ以降は新しい動向に関心がなくなってしまった。それ以降も、たとえばジョン・ゾーンやフレッド・フリスには共感したけれど、彼らの音楽には希望もなければ絶望もない、いってみればパラジット(寄生)的に偏在する音楽なのだ。確かにそのほうが現代的なポップのあり方を示してはいたが、やはり俺には絶望も恩寵もない音楽には核心的な部分でなじめない。だったら、いくら文学的表現といわれようと堕天使のような沈潜と飛翔の危うさを秘めたアファナシェフのピアノ・ソロを聴いていたほうが、よほど共感がもてるし、普遍性を感じることができる。mandanaさんがJoy DivisionのCloserを聴かない人間とは分かり合えないと書いていたように、俺にはクラシックの楽譜をとおしてアファナシェフの音楽を聴き取れない人間とは理解し合えないとすら思う。クソみたいなクラシックの演奏家は腐るほどいるが、アファナシェフのような演奏家がいるから、未だにクラシックと付き合っていられるのだし、音楽を聴くことに恩寵を得ているという反面教師的な聴き位置に甘んじることができるのだ。
なんか、またまた取り留めなくなってしまった。眠い。