音楽とオーディオ

俺がオーディオに投資を始めたきっかけのもっとも大きなもののひとつに、ナマをぜひ聴いておかなければならないと思う演奏家がどんどん少なくなってきたことがある。コンサートに行っても、同じ時間と空間を共有しながら一対一での対峙を迫られる経験がどんどん減ってきたのだ。そのような真剣な対峙がなければCDで聴いているのと違うのは、コンサートホールの音かオーディオの音という音響的な問題でしかない。演奏にそんな一回性が求められないならば、自分がかつて経験した演奏家との出会いを記録したCDを聴いていたほうがよほどいいとすら思う。以前なら、同じ曲ではなくてもある曲のナマの記憶さえ鮮明であれば、その演奏家のCDを聴いてもオーディオの再生音などそれほどこだわらなかったが、CDでもナマでも同じ印象しか持てない演奏家が増えてくると、ナマを聴く必然性のかなりの部分がなくなりるのだ(しかし、いまでもコンサートには行くわけだが、それにはいま書いたこととは別の必然性があるからで、そのすべてを否定するつもりはない)。だから、CDでしか聴く気の起きない演奏家の録音などを聴いていると、再生音が気になってしかたがないことがある。つまり、オーディオ的な聴き方になってしまうわけだ。このことは、音楽的にまったく感動を覚えないつまらない演奏会に行くと、ステージ上の個々の演奏家に注目して聴いたりするのと似ている(あのフルートの姉チャンの恍惚した表情がステキとか ^^;;)。
たぶん、オーディオ評論家とか多くのオーディオ・マニアってのは、そんな聴き方に近いんじゃないかな(俺はオーディオ評論はまったく読まないが)。音楽が生成する過程に演奏者といっしょ対峙するんじゃなくて。再生音がいくらすばらしくても、その過程を共有できなければBGMといっしょで、少なくとも俺には音楽を聴くことにはならないわけだ。もちろん、ここではクラシックについていっているわけだが、メディアで消費されることを前提に成り立っていない音楽であれば、ジャズだろうが、ロックだろうが同じだ。俺が嘆きたいのは、クラシックが消費される音楽にどんどん近づいてしまっていることなのだ。再生音に気を取れていたのでは、音楽に対峙することなどできないのだ。
たとえばきょう聴いたチェリビダッケの指揮するモーツァルトの「レクイエム」(分売有)など、主観的にはナマで聴くことのできる数分の一の情報しかないし(チェリが録音を毛嫌いしたというのとは別の意味で、俺はチェリの演奏の本質的なところは絶対にCDでは収まらないと思っている)、俺はチェリがこの曲を演奏したナマを聴いたことはないのだが、彼が微細な部分でどこをどう演奏しているかが手に取るようにきこえてくる。そうなればオーディオなんて極端な話、ラジカセでもいいのだ。実際、俺は大学に入るまで、ラジカセどころか、教材用のカセットテープレコーダーとラジオしかなかったのだが、エアチェックしたウィーン・フィルの音とベルリン・フィルの音は聴き分けることができた(音というよりも演奏スタイルと言ったほうがただしいが)。
いいたいことの焦点がぼけてきてしまったが、とにかくきょうはこのCDを聴いて、久しぶりに「再生音」などということを気にせずに音楽と演奏家に対峙できて、とても幸せだった。この幸福感を得るためにこそ、オーディオの再生音にこだわっているということを確認したかったわけだ。