女声ヴォーカルを聴かない(聴けない)理由

ノラさんとたかはしさんから、なんで女声ヴォーカルを聴かないのかなぁ、みたいな質問があったので、俺が女声ヴォーカルを聴かない理由がどこにあるのか、ちょっと考えてみた。もっとも現実的な理由は、女声ヴォーカルのCDを買う余裕があるならもっとほかに欲しいCDがあるし、それを聴く時間があればもっと読みたい本もある、ということだが、それは理由のひとつであっても「どこにあるか」という問いに対する答えにはならない。女声がうたう歌そのものを聴かないかといわれれば、たとえば、ダグマー・クラウゼの「ハンス・アイスラーを唄う」だったり、ギーセラ・マイのうたうブレヒト・ソングだったり、シャンソンならばダミアやエディト・ピアフ、もっと新しいところではブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」などはたまに聴く。日本人なら中島みゆきのCDは「寒水魚」までのものは全部持ってるし、戸川純鬼束ちひろCOCCOのCDはそれぞれ1枚ずつ持っている。こうして並べてみると、見えてくるのは「メッセージ性」といえるだろうか。それも負の力に導かれたメッセージ。
女性の声というのは、男性の声よりもはるかに人の根源に潜むカオスを分節化する力があるように思う(丸山圭三郎的にいえばカオスモス)。たとえば、ひじょうに政治的なメッセージ性の強いブレヒト=ワイル/アイスラーのソングは、女性の声で聴かないとその強さがまったく伝わってこないのも、そういうことにあるのではないか。つまり、俺が好む女声というのはそうしたカオスの力が前面に感じ取れる声といえるだろうか。だから、それはジャンルに依存しない。ジャズ・ヴォーカルでもフィッルジェラルドは聴いてもノラ・ジョーンズが聴けないのもそういう理由だとおもう。
しかし、それを言うにはもうひとつ女声、男声という性差とは関係のない「声の身体性」というやっかいな問題があるが、簡単にいってしまえば、存在のざわめきみたいなものが聞こえるか聞こえないかということだ。昔から俺はF=ディースカウの言葉を完璧に歌にしてしまうバリトンが好きではないのだが、それと同じことをロラン・バルトが言っていて(「第三の意味―映像と演劇と音楽と」所収「声のきめ」)驚いたことがある。彼はそこで、「F-ディースカウは非の打ちどころがない歌手であるが、その過度に表現的な技巧故に文化を超えることはない」と言う(文化を超えるものは声がもたらす身体性である)。言葉に内在している情動や身体の動き(母音子音の発音)をすべて無駄のない発声法に還元してしまう(つまり上手すぎるのである)ことで失われるものこそが重要だという認識である(じゃあ、ノラ・ジョーンズよりも綾戸智絵のほうが好きなのかという突っ込みはしないように/笑)。バルトはそこに母音と子音の意味論的分析で応えるのであるが、たとえばそれを楽器にたとえて楽音とタッチがもたらす非楽音的要素に置き換えると、なぜ俺がカラヤンの演奏が好きではないかということのひとつの理由にもなるし、もっと飛躍すれば、なぜ俺がオーディオの音を聴くときに音色よりもそれに付随するタッチやノイズのほうに注意を向けるのかという説明にもなる。
というわけで、俺が一般的に女声ヴォーカルが好きになれないのは、ただでさえ存在論的なカオスをはらむ女声によって日常的な愛だの恋だのがうたわれると、声と言葉がすごく乖離して聞こえ、それに生理的な違和感を覚えることが大きい。逆にいえば、カオスと身体性が伴った女声ヴォーカルは好きなわけだが、わざわざそれを探そうという手間はあまりかけたくないのである。だって、そういう声は日常で奥さんが発してるんだし、…というのは半分冗談だが、俺にとって女声ヴォーカルを聴くことは、隠れてエロ本を読んでた記憶やエロビデオを見る感覚に近い気恥ずかしさに基づく違和感がつきまとうのは確かなことなのだ。
最後に、オペラとかリートという問題が残るが、まずオペラについていえば、オペラは本来ならば日常的な会話に隠された内面のドラマを舞台化するという倒錯的な非日常的な世界だし、ベルカントというのはヒステリーの声以外ではないから、その意味ではカオティックな声なので問題はない。ただ、いまでもあまりオペラは好きじゃないので、アリア集とかいうCDは非常に少ない。リートについては俺は完全に言葉の芸術と位置づけているのであまり問題はないが、これも女声リートよりも男声リートのほうがずっと数が多い。残る合唱については、声は集団になれば楽器であると認識しているのでまったく問題はない。
とまあ、駆け足でしかも読まれる方のことも考えずに俺流の物言いで書いてしまって説明不足もあるけれど、とにかく俺にとって女性の歌(声)というのはやっかいな代物であることだけは伝わったと思う。でも、こういうこと書くとヴォーカル好きの人からは総スカン食らうんだろなぁ。
[追記]
いただいたコメントにおこたえしていて思い出したので、メモ的に…。
神話には「女性の声」に誘惑されて破滅する男という原型がある。「シレーン(セイレーン)」もそうだし「オルフェウス」もそう。その変形として「ナルシスとエコー」の神話がある。そして、そのナルシス神話から実存的に想像力にアプローチしたのがサルトルの『想像力の問題』である。