「〈反〉哲学教科書」

先週はインフルエンザ週間だったわけだが、寝込んだのは2日だけであとは事後療養みたいなもんだったから、気分的には年末年始よりもゆっくりできた。仕事や私事で追われる日常から開放され、しばしの現実逃避と惰眠を貪りもできたし。そんななか、布団の中やリビングで日がなゴロゴロしながら先週に引き続きこんな本を読んでいた。ミシェル・オンフレ「<反>哲学教科書」(NTT出版)。テーマごとに独立しているから、拾い読みしたまま放っておかれていたもの。
<反>哲学教科書
この本は、フランスのリセの最終学年の「教科書」、つまり本来の読者は大学進学を目指す17〜18歳の少年である。しかも技術系の。俺たちが高校の時には「倫理社会」なんて、それこそ思想史のカスみたいなものが必修カリキュラムにあったわけだが、今ではそれすらなくなってしまった。たしかに「倫社」なんて科目はなくして結構である。上っ面の思想史なんて生きるうえで屁の役にも立たない。しかし、「答えの定まらない問い」を「考える」ための(つまり本来的な意味で「哲学」するための)方法を提示しないまま、「現代社会」なんて科目を据えたところで、「みんなで〜しましょう」みたいな相も変らぬムラ社会的な合議手法で、日本人すべてをエコロジストにしたり、素朴な愛国主義者に育てたりするだけである(エコロジー愛国心も否定しているのではない、念のため)。「個」の問いや価値はそうやって排除され続ける。
俺が嫌いな番組のひとつに「10代しゃべり場」がある。どうも、世の大人たちや教育者たちは、ああいった若者たちの発言が「個」の問いや価値の表現であると勘違いしている。「〜で何が悪い!」VS「ふつうはこうじゃん」というムラの住民か否かというやり取りを見ていると、俺はすごく怖くなってくる。このあたりのことは端折るが、ああいう発言を見聞きして「教育の参考になる」と考えている教師が実際にいることが、もっと救いがない。自分たちの教育制度がそういう2項対立にすらならない個の排除を生んでいるという自覚が決定的に欠如しているのだ。そういう教師たちは「なぜ、人を殺してはいけないか?」「死刑制度の何が問題なのか?」「日本軍による大量虐殺の何が間違っていたのか?」「なぜ校庭でオナニーをしてはいけないのか?(当該の本に書いてある!)」「デュシャンの便器がなぜ芸術なのか?」という問いにどうやって答えるのだろう??。
「〈反〉哲学教科書」は、たしかに読みやすい「教科書」ではない。哲学科を出た俺にだってすんなり理解できないことも書いてある。それに、リセの生徒たちがこれらの問題をすべて理解しているなんて思うこともとんでもない幻想だ。ただ、人間が生きていくうえで何が問題であり、すべての問題は「人間であること」から生まれ、その集積が現代社会であるということを、「オレの問題」として考えることの重要さを提示しているという点でいい「教科書」である。
(追記)各テーマの末には哲学者や思想家の書物からの引用がけっこうたくさんあり、それだけでも読み応えがある。邦訳のないものもかなりあるのもうれしい。
・以下、amazonからコピーした本書の目次
はじめに 年度の初めに、まず哲学の教師を火あぶりにする?
第1部 人間とは何か
自然:サル、人食い、オナニーする人
芸術:デコーダー、モナ・リザ、小便器
技術:携帯電話、奴隷、移植
第2部 いかに共存するか
自由:建築家、幼児性愛者、インターネット
法律:規則、監督者、警察
歴史:暴力、ナチスニヒリズム
第3部 何を知ることができるのか
意識:リンゴ、失神、精神分析
理性:酩酊、星占い、分別
真理:政治家、嘘つき、大麻