地霊

その場所は、あとで地形図を見て知ったことだが地下水路の湧き水が地表に滲み出ているところで、当時は小さな池があり葦やガマが群生していた。周囲には住宅が建っているが、そこだけ地盤が弱いためか埋め立てられなかったのだろう。そばにはまさに朽ちようとしていた木造2階建てのアパートのような建物があり、小学生の間では「幽霊屋敷」と呼ばれていた。そんな建物は、ほかにもいくつかあったが、池の様子とのセットが、子どもの感性にはいかにもゲゲゲの鬼太郎のマンガに出てきそうな薄気味の悪さが漂っていたためにそのように呼ばれていたのだろう。しかし、俺の記憶でもたしかにそこだけが妙に湿っぽい空気を漂わせ、ぽっかり異空間が闖入してきたような感じがある。
そう、その場所は俺が小学校のときに通っていた通学路の脇にあった。
先日、ママチャリで近所を散歩しているうちに、その通路に入り込んだ。もちろんその当時の様子を残しているものはほとんどない。新興住宅地なのだ。だが、その場所に差し掛かったところで背筋が凍りついた。いや、マジで。
通りから5、6メートル奥まったところに3階建ての小さなマンションが建っていているのだが、そこがすでに廃墟になっているのである。建物の手前の前庭も枯れ草が伸び放題で、まさに俺が小学生のときに見たその場所の光景が、時を隔てて建物が変わっているだけのままの姿で目の前にあるのだ。一瞬幻覚を見たような感覚の落差を感じ、次の瞬間、その場の空気がよどんでいくのをたしかに感じた。昨年世を去った岡田史子という寡作のマンガ家の作品に「赤い蔓草」という短編があるが、まさにそんな死の空気が立ち込めるかのような気配。「地霊」ということをはじめて実感した瞬間である。
もちろん、もともとその場所は地盤がゆるいためにマンションを建てるにはふさわしくない場所であって、そこに建てたゆえに建物にゆがみが生じるか何かして、強制退去でもされたという可能性だってあるし、むしろそのように考えるのが合理的である。
しかし、建築の分野でも「地霊」は「ゲニウスロキ」というラテン語があてられることがあるように、「場所」にはある種の力が宿っている。たしかにその場合のゲニウスロキは、その場所にまつわる「物語」を意味するのが一般的である。だが、逆に言えばゲニウスロキという言葉を使ってまで、ある場所の「物語」を読まねばならないということは、そこに何某かの牽引力がはたらいているという証でもある。
後日、某大手ゼネコンで都市計画をやっている小学校時代からの親友にその「廃墟」のことを伝えたら、仕事上そういう経験はよくあったようで、今回の話も「聞いただけで背筋がゾクッとした」という。 
もう一度行ってみようか。しかし、地霊というのは記憶とともにある気がする。たぶん、次に見たときにはそこにあるのはただのマンションの廃墟だけかもしれない。


ピグマリオン岡田史子作品集

ピグマリオン岡田史子作品集

岡田史子の短編集のコミック版はすでに絶版だが、新編集で出版されていた。岡田史子は20歳の頃、萩尾望都とともに愛読していた。現代詩を読むような独特な作風に惹かれた。
クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ『ゲニウス・ロキ〜建築の現象学をめざして〜』住まいの図書館出版局(1994)
ノルベルグ=シュルツの『実存・空間・建築』(1971・SD選書)は学生時代にかなり読み込んだが、じつはこの『ゲニウス・ロキ』はまだ読んでいない。こいつも絶版みたいだが、ぜひ読んでみたい。でも9000円以上するんだよなぁ。地道に古本を探すことにする。
日本の“地霊”(ゲニウス・ロキ) (講談社現代新書)

日本の“地霊”(ゲニウス・ロキ) (講談社現代新書)

国内では建築家の鈴木博之ゲニウス・ロキに憑かれている。これは新書で手ごろだが個人的にはちょっとついて行けない部分がある。