原点回帰??

以前書いたことがあるかもしれないが、クラシック音楽とかなり距離を置いていた時期があった。もちろんぜんぜん聴かなかったわけではないが、そのきっかけは高校時代に建築家なんてものに憧れて現代美術や現代詩、つまり同時代的に受容できる前衛芸術に興味が移ったことと、1973年に来日したムラヴィンスキーレニングラード・フィルとザンデルリンクドレスデン国立管を生で聴いて強い衝撃を受けて、この国でクラシックを演奏したり聴いたりすることが意味のないことのように思えたことである。どう逆立ちしたってこの人たちの伝統と、異なる歴史感覚からうみだされる音楽を理解できるはずがないと。――当時、音楽における同時代といえば、現代音楽を除けば、反時代的な精神に基づいてエレクトロニクスと感覚の融合を目指していたプログレッシヴ・ロックがもっとも前衛的なものに思われたし、実際、多くの現代音楽の作曲家たちもプログレの動向に注目していた。プログレとの付き合いはそうして始まったわけだ。プログレはおそらく1975年をその頂点として、そこから派生してきたテクノや別ルートのパンクに拡散していったために興味の対象だった時期は比較的短いながら、80年代前半のノイズ・ミュージックやインダストリアル・ミュージックなどとともにかなり俺の音楽観に影響を与えている(やはりここでも、歌ものロックはほとんど聴かなかったわけだ/笑 例外は、クリムゾンとピンク・フロイド、オザンナくらいかな)。おかげで、クラシック・マニアとかクラオタ(どう違うのかよく分からないが)にもならず、クラシック音楽とほどよい距離感を保てていると思う(自分ではね)。
今回、ジャーマン・プログレタンジェリン・ドリームを集中して聴いて、少し崩れかけてそうになっていたその距離感の修正がされたように思う。ちょっとした想像力と感覚のリハビリである。どうも、オーディオに入れ込みすぎると、音の定位とか帯域バランスとか、音の粒だちや立ち上がり方、仮象とはいえ生音の再現性とかに注意を向けすぎて、音(音楽ではない)を感覚や想像力の問題としてとらえる部分が抜け落ちてしまいがちである。その意味で、こういう電子音だけでできている音楽というのは、リハビリにちょうどいい(あと聴くべきはブライアン・イーノのAMBIENTシリーズとイフェクターをがんがん効かせたロバート・フィリップのギターくらいでいいかな)。ある意味じゃ、ジャンルを問わず「音楽」という対象に向かうときに自らの立ち位置についての原点回帰の作業といえるかもしれない。

PHAEDRA

PHAEDRA

RUBYCON

RUBYCON

RICOCHET

RICOCHET

ところで、先日からの自転車ネタから派生して「地霊」なんてことを書いたら(ただ自転車に乗ってたらこんなこと、ありましたってだけだけど/笑)、そっち方面でも原点回帰衝動がはたらいたようで、khimairaさんのblogの後輪用変速機の写真を見たら、思いっきり想像力を刺激されてハンス・ベルメール球体関節人形をイメージした。khimairaさんのところのコメントではちょっとエグすぎる画像リンクをしてしまったので(スンマセン! ^^;;)、もっと変速機のイメージに近いものを引用してみる。変速機の写真はkhimairaさんのところから引っ張ってきたもの(引用させていただきます)。
 
 

もっと近いものもあるのだけれど、サイトから検索できるのはこれくらいかな。それでもこれらのイメージをつなぎあわせてみると、不自然に連結された関節と変速機の骨格が重なってこないだろうか。ついでに、ベルメールには自転車と少女が一体化されたイメージのデッサンもある。たとえば、こんなの。

こういう、シュルレアリスティックなイメージの連鎖をしてしまうことが、いかに自分が邪な動機でBIANCHIのクロスが欲しいといっていることの証でもあるのだけれどね。