俺は自律神経系のはたらきが弱いらしく、ストレスがたまるとパニック障害を起こして七転八倒して救急車で運ばれたり、過換気障害をおこして駅のベンチでビニール袋を吸っていたりする。その姿たるや、いい歳したオヤジがシンナーを吸ってるみたいに見えるだろう。じつは、きょうも事務所で危うく救急車を呼ぶところだった。
 世の中には音楽療法なるものがあって、なんでもモーツァルトの音楽には自律神経を安定させたり、免疫力を高めたりする効果があるらしく、テラピーCDもバカ売れしている。もしそんな効果があるなら、ふだん一般の人間よりも数倍モーツァルトを聴いているはずの俺が、自律神経系の失調に苦しむ確率は少ないはずだ(あくまで確率的に少ないだけだが)。ま、批評的な聴き方をしているのがいけないといわれれば、「はい、そうですか」と納得するしかない。それに、そもそも俺は聴き手としてはあまりモーツァルトは好きではないのだ。実際、演奏する側にまわって音楽の息遣いを身をもって表現する立場にいれば話は別だが(そうすれば確かに呼吸法的にも体にはよさそうではある)。
 しかし、そんな俺がパニック障害に陥り、そのとき音楽を聴ける環境にいれば必ずかける曲がモーツァルトのピアノ協奏曲第23番(イ長調、Kv488)なのだ。音楽療法などという人と音楽の個人的なかかわり方如何でどうにでもなるようなものをシステム化し、商品化するやり方には与したくはないが、この曲を聴いているときの生理的な安心感は抗うことができない。「ほれみろ、何だかんだ言っても効果も認めてるじゃないか」というテラピー肯定派には、この曲はこれまでどのテラピーCDにも入っていないよな、という反論もできる。それこそ、「音楽と人間の生理的なかかわりは個人的なもの」という証である。
 で、あまり時間もないので先を急ぐが、モーツァルト好きでもない俺にも好きな作品というのはあって、先の曲ともう一曲あげれば交響曲第38番(ニ長調、Kv491)で、面白いことにケッヘル番号を見ればわかるように同じ時期の作品だ。モーツァルト30歳、「ドン・ジョヴァンニ」を作曲する1年前である。もちろん23番の協奏曲や38番の交響曲よりも後の作品のほうが音楽的にすぐ入れているものも多いし、音楽史的な意味も大きのだが、「ドン・ジョヴァン二」以降の作品というのは、死の影とかいう夭折した天才についてまわるお決まりの目的論的思考が邪魔をして、神話化しすぎているのではないか。むしろ俺には、晩年の作品はどうもモーツァルトが定住したウィーンに必死にしがみついているような気がしてならないのだ。成功への野望やら金策やらで。そんなことは実証もされるはずもないことだが、おそらくモーツァルトは近代音楽史上もっとも成功したコスモポリタンであって、数々の様式を吸収する過程こそ彼の天才の証であり音楽の原動力であったわけだから、そうしたパラジット的な要素が失われて成熟していく過程というのは、悲劇にしか思えないのだ。もしかしたら、俺が先にあげた2曲が好きなのは、成熟の一歩手前にあるせいかもしれない。
 ここまで読んでいただいた方のために、お気に入りの演奏をあげておこう。23番の協奏曲のほうは、ロベール・カサドシュのピアノ、ジョージ・セル指揮コロンビア交響楽団SONY CLASSIAL)。38番の交響曲のほうはペーター・マーク指揮ヴェネト州パドヴァ管弦楽団(ARTS、発売:日本コロムビア)。じつは、23番のほうは1980年ころにFMで放送したワルター・クリーン(p)/ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮ウィーン交響楽団エアチェックテープが大のお気に入りだったのだが、引越しの際に紛失してしまった。これをなくしてしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。