ものごとには段階がある

どうも俺は昔から段階を踏むということができない。モーツァルトやベートーベンやブラームスに興味を持つ前に、ブルックナーシベリウス新ウィーン楽派に興味を持ち、二次方程式をマスターするまえに、和声学と対位法を独学で学び、ビートルズを聴くまえにイアン・カーティスやスロッピング・グリッスルを聴き、漱石ゲーテを読むまえにル・クレジオやグラン・ギニョールの作家を読み漁り…。そういう性向は生き方にも反映されるようで、高校3年間は授業をサボりまくり、定期試験の勉強もせず、あわてて一年勉強して大学に行き、行けば行ったで、基礎となる知識が欠如していることに気づき、またもやあわてて基本文献を読み漁り、大学院入試の直前にやっとドイツ語と哲学を体系的に勉強し、大学院でも少なくとも当時の日本の哲学科の学生がテーマにしないようなものを研究対象として、それをいいことにぬくぬくしているうちに、指導教官と仲たがいして、いきなり何の基礎もなく編集の世界に飛び込んだ。つまり、基礎から知識を積み重ねたり計画的にスケジュールをこなしたりということができないのだ。いまの仕事でも計画的に仕事が進んだことはない。いつもぎりぎりで半分力技のように追い込むことが多い。
また前置きが長くなったが、昨晩、あるサイトからダウンロードしたMQ60の回路図と、以前買っておいたKMQ60の組み立て用の実体配線図を眺めながら、そんなことを考えていた。いままで、SA-5.1やSA-8の部品や基板配線、不親切な回路図などを眺めて途方にくれていたことが、ウソのようにスッキリしてきたのだ。基板もないし部品も少なく回路そのものがひじょうに単純でわかりやすい。もちろん、だからといって、この回路がどういう特性もっているかなどまだわからない。が、こういうひじょうにわかりやすいアンプをすっ飛ばして、いきなり複雑なアンプを手にし、そのトラブルに対処しようとしても、基礎問題に触れたこともないのに応用問題に取り組むようなもので、それは端から無理というものだ、と改めて思いつつ、俺のジンセイが象徴されているなぁと、感慨にふけったのであった。こういうところからはじめなければダメだ。
昨日から、SV-501を初めとするいくつかのアンプについて、いろいろな情報をいただき、皆さんに感謝しているが、こういう真空管アンプの基本がしっかりしている製品をみるにつけ、俺は何をしてきたのだろうかと思わざるを得ないのであった。