スピーカの支配力

たまたま、昨日の文章を読んだ友人から「まったく違う傾向なんだったら、ふたつとも置いとけばいじゃん」という内容のメールが来た。いいたいことはよく分かるのだが、問題はもっと別のところにある。Royal TowerもConertinoも個性が立っているというか、絶対にほかのスピーカとは違うんだぞ、という個性が強い。そうしたふたつの個性と付き合っていることは、個性の強い二人の女性を同時に相手をしてるようなもので、一方の個性と向き合っているさなかに、もう一方のほうが同じ局面でまったく違う趣をかもし出していたことを思いだしたりして、具合が悪い。居心地がひじょうによくない。一方が個性の強い女性ならば、もう一方は、その個性と向き合うなかで生まれた「子ども」のようなものがいい。自分と相手の個性のぶつかり合いによって醸成された価値観を素直に表現してくれ、なおかつ手の掛け甲斐のあるようなものだ。そんなことは、言い古されているのかもしれないが。
たまたま、大橋さんの日記を読んでいたら、「原音再生のウソ」というコラムがあった。まったくそのとおりだ。おそらく一般のマニアよりもナマ音をたくさん聴いている俺だって、音場再生や楽器の音色、ホールトーンなど再現する方向性のまったく異なるスピーカを聴きながら、スピーカそのものをひとつの楽器、あるいはオーケストラのように感じていたのだから。原音とは、いってみれば「差異」のなかにしか存在できない。