室内オーケストラの《悲愴》

PPPアンプのパワーについて触れたので、先日行ったコンサートのことを思い出した。メインプログラムはチャイコフスキーの《悲愴》交響曲である。演奏したのは俺がいま日本でもっとも才能がある指揮者の一人と思っている友人が立ち上げたプロの室内オーケストラ。音楽についてはあまり書かないことにしているから詳細は伏せる。ここで疑問を呈したいのは、オーケストラにしてもオーディオにしても「パワー」っていったいなんだろうということだ。クラシックを聴く人ならばおわかりのように、この曲はふつう室内オーケストラがやるような曲ではない。少なくともヴァイオリンは1st、2ndともに最低でも12人以上、ヴィオラとチェロは10本以上、コントラバスも6本は必要とされるのが一般的だ。ところがその演奏会では、ヴァイオリンはそれぞれ8人ずつ、ヴィオラとチェロは6人ずつ、コントラバスに至っては3本しかない(もちろん管楽器は2管編成だ)。しかし、そこでくり広がられた演奏はひじょうに濃密なもので、人数の少なさなどまったく感じさせないものだった。とくに、この曲の終楽章のコーダで悲痛にppp(あ、これはアンプのことじゃなくてピアニッシッシモね/笑)に沈んでゆく場面ではコントラバスがdiv.つまり2分割される。ということは3人なら2+1で演奏するしかない。いくら弱音とはいえ、このコントラバスが響かないことにはこの曲が成り立たない。ゲルギエフ/キーロフ管弦楽団の来日公演など、10本のコントラバスがゴリゴリと重低音を響かせていたわけで、それに比べれば物理的音量には雲泥の差がある。しかも、重要なシンコペート・リズムは2+1の1本のほうが受け持ったのだから。けれど、聴覚上そこに物理的な音量差はほとんど感じない。感じられるのは、そこで立ち現れる音楽のリアリティ以外にないのだ。もちろん、もっと大きなホールで物理的に(視覚的に?)もっと大きな音で聴きたいという聴衆は多いだろう。しかし、それと音楽とはまったく関係ない。
奇しくも、その演奏会はPPPのエージングがほぼ終わった日のマチネーだった。1本のコントラバスが響かせる重低音の濃密な響きが、PPPアンプの押し出しの強い低域のリアルな音の再現性に重なった。