奥さんのこと(1)

わたしはウィークデーは家族の顔を見る機会がないという不良中年である。よって、週末はできるだけ家族といっしょに過ごすようにしている。息子はもうすぐ中3なので最近は親離れが進行中であることもあり、夜は奥さんとワインを飲みながらあれこれ話をして長い夜を過ごす。楽しい話ばかりではないが、わたしにとってはそれが家族との大切な時間になっている。
息子が早々に自室に引き上げると、しばしば音楽がそこに潤滑油として加わる。うちの奥さんはクラシックがとくに好きというわけではないふつうの女性である(持っているCDの半数近くは落語だったりするから「ふつう」といえないか…)。好きなクラシックの作曲家はチャイコフスキーシベリウスワーグナーマーラー(第9のみ)といったところ。名前だけを挙げてみると「ご馳走様でした〜」といいたくなる。ふつうに考えればロマン主義的な劇的な叙情性を求めているのだけど、ただのロマンティシズムではダメらしい。どこかで屈折したものを感じたり、時代との折り合いの悪さを感じたりしないと「いいなぁ」とはならない。つまりロマン主義における叙情性の、その正負にわたる強度に惹かれるというわけ。贅沢というか、女性の直観的な感受性というのは男など足元にも及ばないくらい鋭いと思うことがよくある。
 つい先日も、ブルックナーの7番の2楽章を聴いていたら「この人は偏執的な性格。独身だったんじゃない?」などと言う。「え?(もっともそういう性格の薄い)7番の2楽章を聴いてそれがわかるのか??」ってなもんだ。ブルックナーが部屋の窓からドナウ川の河川敷の砂粒の数を数えていたとか、ホテルのメイドに手を出して結婚を迫られたというエピソードなどを話したら、なるほどという顔で聞いていた。もうひとつだけ例を挙げれば、ルネサンス期のイタリアの作曲家ジェズアルドを聴いているときに「どうしてこの人はこんなに自分を追い詰めるような音の使い方をするのかしら?」となる。もちろん彼女は、ジェズアルドが妻殺しの罪科ゆえに強度の鬱病になって、当時としては破格の転調や不協和音を多用するようになった、などということは知らないし、楽典的な素養などほとんどない。
そんな観察力でわたしも見られているのかと思うとヘタなことはできないが、もともとわたしは「品行方正な不良中年」であるので問題はない(と思う)。
その奥さんと、先週末にチャイコフスキーの「悲愴」交響曲を聴いた。
(続く)

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