しばらく考えていたこと

2月の頭に「自分が志向する音とかそれとのかかわり方なんかが、曖昧になりつつあることに気づいて、なかなかうまく整理がつかない」なんてことを書いて、音楽とオーディオから意識的に離れて読書週間を決め込んだりしたら、次の週にはインフルエンザで寝込んでしまったわけだが、おかげで結果としてずいぶん吹っ切れた気がする。自分なりの判断基準に過ぎないが、結局オーディオの違いによる音の差異は本質的な違いではなくて、ある一定の線をクリアしていればコンサートホールの違いとか、席の場所にともなう音場感の違いと同じレヴェルのことだと改めて確認した。もちろん、その「一定の線」に含まれるさまざまな要素、たとえば解像度とか分解能、S/N比といわれる基本的な能力が悪くてはお話にならないが、低域から高域にかけての音のバランスや空間内での展開の仕方や音の距離感などについていえば、設計者がどのような音を求めるかによって大きく異なってくる。とくに、一般のメーカー製機材のように平均的な音づくりをするのではなく、じんそんさんやKhimairaさんのDAC、あるいはLucyさんのPPPアンプのように、目指すべき音があってその音に近付けるために回路を単純化純化)したりすればなおさらそうだ。
ゲーテの有名な言葉に「創造することは断念することだ」というのがあるが、かれらがつくり出そうとしてる音は、まさにそういう創造的な音だ。だから、俺なんかが、彼等が作り上げようとした音に対して良し悪しの判断などできるはずがない。いままでも、何台も試聴させていただいて好き勝手な印象を書いてきたが、その線は守ってきたつもりでいる。現代に通じるロマン主義の芸術批評の基本に「稚拙な芸術は批評できない」(F.シュレーゲル)というテーゼがある。つまり、音楽に「いい音楽(演奏)」と「つまらない音楽(演奏)」しかないように、オーディオ機材にも「いい音」と「つまらない音」しかなく、その「いい音」を言語化する行為によって、そこに何らかの価値を伴う判断を加えるとすれば、方法は2つしかなく、俺自身が彼等と同等な知識や技術があった上で、その音づくりを反省的に創造(追体験)するか、あるいは彼等が無意識のうちに捨象してきたものを音楽を聴くたびにあらわにし続けるという、批評本来の手法を用いるしかない。
また、面倒な理屈ばかり並べている俺も俺だが、つまり俺にはオーディオ機材の音の良し悪しを判断できる客観的な基準はもとから存在しない、ということを確認したかっただけだ。しかし、だからといって「結局、いい音とは主観的なもので、個人の好みによる」という不可知論には絶対に与したくはない。したがって、先を急げば、オーディオの音をはかる基準を便宜的に「ナマ音」という、どんなオーディオ機材にも到達不可能なものに求めることで、それぞれの機材が、そのどこに焦点を当てているのかということを聴き取ることが、おそらく自分にできるもっとも客観的な方法であり、最善の方法なのだと思う。だから、最初に結論を急いでしまった、コンサートホールや座席の話になってくるわけだ。
こんな、人から見たらバカみたいなことにこだわったのは、こうでもしないと音楽を音楽として聴けないからだ。読まされるほうは、たまらないだろうけれど。