奥さんのこと(3)

 というわけで、うちの奥さんネタの続きである。
 前回も書いたように、彼女はクラシック音楽に詳しくはぜんぜんない。鳴っている音楽が「好きか、嫌いか」という感覚的な判断が何よりも優先される。とくにCDを聴くときはそうだ。連れだってナマを聴く場合には、こちらが経験値からあらかじめ「これならいいだろう」という曲目がメインのものを選ぶから満足する確率は高いし、独特の劇場の雰囲気が好きから多少はずしても満足する。ときには、「わたしも行きたい」というからいっしょに行ったパトリス・シェロー演出のベルクのオペラ「ヴォツェック」のように、大不評を買うこともあるのだが(わかる人にしかわからないだろうが、先を急ぐ)。
 そんな奥さんが、ワインを一本ほど空けたところで、チャイコフスキーの「悲愴」交響曲が聴きたいと言いはじめた。アルコールを飲みながら聴く曲ではないと思うのだが、わたしのライブラリーから預けているカラヤン/ベルリン・フィルとザンデルリンク/ベルリン交響楽団という2つの「後期3大交響曲」セットに入っている「悲愴」がしっくりこないらしい。なるほど、カラヤンザンデルリンクでは行書体と楷書体ほど演奏スタイルは異なるけれど、重厚長大路線ということでは共通している。そこで選んだのがこれ。

チャイコフスキー : 交響曲第6番ロ短調「悲愴」

チャイコフスキー : 交響曲第6番ロ短調「悲愴」

ゴリゴリな現代音楽も作曲するギーレンの手にかかると、ペシミスティックな要素の強いこの曲から、泣けとばかりに付け加わりがちな(後付け的な)感情移入が徹底して排除され、余分な贅肉も外科医的な情熱を持ってそぎ落とされる。ひと言でいえば青白く光る冷徹な「悲愴」である。じつは、俺はこの演奏が大好きなのだ。――ま、俺のことはいい。意外だったのは、奥さんがこの演奏をいたく気に入ったということだ。感覚的な判断がすべての彼女が、いわば非常に理性的・論理的分析によって刈り込んだ演奏のほうが、カラヤンのコスメティックな(厚化粧な)演奏よりもツボにはまったわけである。――「悲しんでいる人のそばで悲しんでも意味ないものね。その人にできることは、言葉にならない悲しみを“かたち”にしてあげることだものね」。表現は文学的だけど、こういうことを直観的にさらっと言えちゃうところが、俺には驚異なのである。ギーレンがこの演奏でやりたかったことはまさにそれだし…。もちろん、彼女が知っている演奏と表現方法が極端に異なる部分などで、なぜここでこういう刈り込み方をする必然性があるのか、なんて俺が理屈っぽいコメントを入れながら聴いたせいもあるだろうが、それにしても、だ。
こと左様に、たとえばオーディオの音を聴いても、ふだんはまったく音に頓着しないにもかかわらず、新しい機材が入ったときなど「で、音はどうなったの?」ときいてくるが、俺がこうこうこういうようになった、というよりも彼女が聴いたときに言うひとことのほうが、よほど的確であったりするからやりきれない。
ほんと、言語的な観念や分析的な思考をいとも簡単に飛び越えて、直観的な判断に至る女性の能力というのには驚くしかない。