クラシック音楽に薀蓄は必要か?(その1)

前回のエントリーで俺自身のクラシック音楽との距離のとり方を「原点回帰」という言葉を使って書いたら、id:platycerusさんが反応してくれて自身のblogで「クラシック好かん理由」を書かれている。ふむふむ、それぞれの指摘は至極もっともで、なるほどと頷くしかない。クラシック音楽にまとわりついているあれこれが鬱陶しいという気持ちがよく伝わってくる(笑
そこでだ。俺自身がそういう「鬱陶しさ」についてどう考えるか、ちょっとまとめて書いてみることにする。さて、どこから話をはじめようか。物事をいったん整理してから論旨を組み立てるという作業はよほどのことがないとしないので、今回も「書きながら整理する」といういつものパタンでいくことにする(^^;;
ふ〜む。まずは、前回「やまださん」にコメントいただいた「Waldstimme=クラオタ疑惑」(笑)あたりからはじめてみよう。*1

やまださんのコメントに対するレスでも書いたが、「ピンクフロイドやクリムゾン」のことを話題に出しても「オタク」といわれる可能性は少ないが、同じような文脈でクラシックの演奏家の名前を出すと、一気にある種のにおいを発散するらしく「オタク」といわれる可能性が50%以上アップする(当社比/笑)。これには2つの要素が含まれる。ひとつは、後者のほうが前者よりも圧倒的にマイナーな存在であることから、限られた仲間内でしか通用しない「隠語」めいた響きがあること。もうひとつは、いいオトナが死にそうなジジイ演奏家を「巨匠」と祀り上げることは、オタクな人たちが「〜ちゃん萌え〜」といっているのと同じくらい「理解不能」という等式が成り立つだろうということ。*2 この2つの要素がそろうと相乗効果的に「クラオタ」イメージが成立しやすい。俺個人としては、先日書いたエマールのCDを買うよりも、KLUSTERのCDなどをまとめて注文してしまう自分のほうが、よっぽどマニアックだと思うのだ。

このことについては、まあ一般的なイメージとしてはそんなもんだろうなという程度(むしろ「隠語」について言えば、クラシック・マニア(あるいはクラオタ)の間でしばしば使われる「略語」についてはきっぱり拒絶したい)。*3 つまり、クラシック音楽の聴衆が少ないことからくるマイノリティの悲哀だ(笑 ――この問題は、あとで「薀蓄」の話をするときにまた触れることになるだろう。
次に、platycerusさんの書かれている「解釈の自由はあるにしても「譜面再生音楽」をくだらねえと思ってる僕もいる」という問題。
これはひと言、「クラシック音楽は料理人が作った料理である」ということに尽きる。つまり「譜面=レシピ」「解釈=調理」という図式。*4 どうせ同じものを食べるんだったら、おいしいものを食べたいし、料理人だったら基本レシピをどうアレンジしたら、よりおいしく、あるいはより現代的な好みに合った料理になるかということを考えるだろう。クラシック音楽演奏家たちがやってることは、それとまったく同じである。ある料理人(演奏家)はこのレシピをもっと大衆的なものにしようと思うだろうし、別の料理人(演奏家)は最小限のアレンジで伝統を継承しようとするだろうし、これが同じレシピから作られたとは思えないような奇抜なアイデアに挑戦する料理人(演奏家)もいるだろう。つまり、クラシックを聴く面白さはここにあるわけである。CD売り場に行けば同じ曲のCDがどれを選んでいいかわからなくなるほどたくさんののものが並んでいる。それからして面倒だとか、鬱陶しいとかいう人がいるのはもちろんわかるのだが、それは、おいしいフランス料理屋のコロッケを食べたいのだけど、さてどの店に行ったらいいかというのと寸分違いはない。要は「食べてみる」しかないのである。もちろん「俺はフランス料理のコロッケなんか食いたくない。地元の商店街のあのコロッケ屋のコロッケが食いたい」というのだってありだ(じつはわたしはそのクチだったりする)。この町のコロッケ屋のコロッケというのが、同じレシピから派生した(調性とか和声とかいった楽典的なこと)ポピュラー音楽といってもいいかもしれない。
つまり、フレンチのコロッケなんか食べたくない、というのがplatycerusさんの立場で、フレンチのコロッケも町のコロッケも好きだというのが俺の立場なのである。
で、ここまでが前提。
(つづく)

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*1:――「オタク」をどう定義づけるかだが、残念ながら俺はオタク関連の本はまったく読んでいない。オタク文化とは関係なくても読むべきであろう東浩紀の『動物化するポストモダン』すら読んでいない。ので、勝手に「差異を量産化していく高度資本主義社会において、消費の対象となる事物をその有用性としてでなく欲望の対象として記号化し(キャラクタ)、その記号を差異として所有・享受することを欲望する(萌え)という二重のフェティシズムに憑かれた状態」としてみる。たぶん間違ってる。

*2:実際、俺の中学校のころの自室の壁には雑誌に付録としてついていたジジイたちの写真がずらっと並んでいた。

*3:――たとえば「モツレクモーツアルトのレクイエム」「ベト5=ベートーヴェン交響曲第5番」「ブラ4=ブラームス交響曲第4番」「メンコン=メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲」「チャイコンチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番」「ウンリキ=ヴェルディのオペラ〈運命の力〉」、「フルヴェン=指揮者のフルトヴェングラー」「ロジェヴェン=指揮者のロジェストヴェンスキー」などなど。たいてい「長いから」という理由で略号化されるのだが(いまあげた例でパターンがあることがおわかりだろう。でもウンリキはちょっと違うか…)、話をしているときにほかの人が話を聞いていようがいまいが、クラシックを聴く者共通の言葉のように使われる場面に遭遇すると「おまえらがクラシックを敷居の高いものにしてるんだ」と心底思うが、そういうやつらに限って「うちら低俗なポピュラー音楽に興味ないもんねぇ」という隠語メッセージがミエミエなのだ。銃殺刑に処す! どうせなら「ツキツカピー=シェーンベルクの〈月に惹かれたピエロ〉」くらいの遊び心がほしいものだ。

*4:いまわれわれがふつうに食べている洋食がレシピとして記録・分類・整理されはじめたのは絶対王政時代の宮廷料理が始まりであるといわれている。またそのころは博物学の時代でもあり、蒐集された物たちを分類し序列化して整理することがさかんに行われ、それがいまの書物や生物の分類法の基礎になっている(platycerusさんの昆虫の分類も同じですよね^^)クラシック音楽もそもそもの始まりは宮廷音楽、つまり、クラシック音楽も民衆音楽や民族固有の踊りの音楽を宮廷用にアレンジして(分類・整理する作業と同じ)、時の権力者たちの優越感やら欲求やらを満足させるために「おいしい」音楽を作ろうとした結果といえるわけ