クラシック音楽に薀蓄は必要か?(その2)

まず、昨日の最後の文章を以下のように訂正する。
「つまり、クラシック音楽は料理人が作った料理である、という前提にたてば、フレンチの料理人がつくったコロッケなんか食べたくない、というのがplatycerusさんの立場で、フレンチのコロッケも町のコロッケも好きだというのが俺の立場なのである。」
前提を入れないことによって、前段の文脈と独立した比喩に読めてしまうためだ。
――platycerusさんからはコメントで「それとは違う」という言葉をいただいたが、この話は「クラシック音楽は料理人の料理である」という"前提"から論を進めているので、もしplatycerusさんが実際に「譜面再生音楽(であるクラシック)をくだらねえと思ってる」のであれば、「platycerusさん」という記号によって擬人化された主体は「フレンチのシェフがつくったコロッケなんか何者ぞ」ということになる。*1 
もし、擬人化された「platycerusさん」が「フレンチの料理人がつくったコロッケもたべたい」というのであれば、可能性は2つ。「クラシック音楽は料理人の料理である」という前提が否定されているか、「譜面再生音楽をくだらねえと思ってる」現実のplatycerusさんが、"譜面再生音楽とクラシック音楽はイコールではない"、とお考えになっているかのどちらかだ。実際に、クラシック音楽を演奏することと調理することは類似構造をもっているから、この前提そのものは陳腐なものでも突飛なものでもないので、この前提を否定されているとは考えづらい。とすれば、可能性は後者に限られてくる。
"譜面再生音楽とクラシック音楽はイコールではない"場合、考えられるのは、「コロッケが食べたい」「platycerusさん」も現実のplatycerusさんも"ある種のクラシックは好き(あるいはある種の演奏は好き)だけど、「レシピ通りにつくられたコロッケ=譜面をなぞっているような演奏」は「くだらねえ」と思うということだが、それでOKかしら。
しちめんどくさい論理はどうでもいいのだが、このあたりのことは、これから先の論旨にかかわってくる可能性もあるのと、俺が"いい加減な比喩表現"で煙に巻いたり詭弁を弄しているのではない、ということをハッキリさせたいので、ちょっと意地になってしまった(^^;;
やだねー、理屈っぽい人間って(笑

というわけで、きょうはplatycerusさん宛の私信みたいになってしまいました(^^;;

*1:――わざわざこんな面倒な表現をしたのは「フレンチの料理人がつくったコロッケなんかたべたくない」のは。現実のplatycerusさんではなくて、前提=仮定の上で導かれる主体であるからだ。このあたりは正確に読んでほしい。論理的仮定から導かれる仮想の主体と、現実の主体はまったく指示対象が異なる。それを混同してはならない。