クラシック音楽に薀蓄は必要か(その3)

コロッケの喩えはいたく評判がよろしくない。べつにフレンチが高級とかクラシックが高級とかの価値観が入るような書き方はしてないはずなんだけど、どうも読まれる方の多くはそういう先入観があるような気がする。すくなくとも、俺がそういう価値のもとで書いていると思っているような気がする。いずれにせよ「価値」という標準がわれわれの思考に存在する限り、俺も慎重になるべきではある。
ということで、先に行こう。

これまでのことを簡単にまとめれば、日常的にクラシックを聴き、それを話題にする人間というのはひどくマイナーな存在であり、それゆえ、彼らの言説そのものが非常に閉ざされた世界のものというイメージを持たれやすいということ。ただし、彼らのなかには無頓着にあるいは意図的にそれを助長しているものもいること。

そして解釈の自由度の問題。クラシック音楽は「楽譜を再現する」という決定的な制約があるために、楽譜というテクストを解釈する作業は演奏家にゆだねられる。聴き手はその演奏家がどのように楽譜を解釈するかを(オリジナルの音楽と同時に)聴くことになる。*1それを「レシピ」と「料理」という比喩を用いていったわけだが、クラシック音楽が徹頭徹尾、再現芸術であることを確認するためレシピ(楽譜)そのものの創造性については保留した。

さて、そこでなぜ能書きとか蘊蓄が多いといってうっとうしがられるのかだ。
まずは調性だの和音だのといった楽典。まず、学校教育で楽典を習わされたことと、つまらないクラシック音楽を聴かされたということが記憶のなかでセットになっている人が多いんじゃないだろうか、と疑ってみる。フォルテとかピアノ、短調やら長調、主和音とか属和音なんて教えるときに、クラシック音楽を使うなんてバカ教師がいたのだろうか。いたとしたらゴメンなさい。同情を禁じ得ません。本来クラシック音楽を聴くのにそんなものはまったく必要ない。だって、現代音楽のある部分やジャズやロックの一部を除けば、どんな音楽だって同じ要素でできてるんだから(民俗音楽を除く)。ふつう、演歌を耳にするときに「調性ウゼー」とかいうことはないだろう。俺も「演歌ウゼー」と思うことはあるが、その理由は「演歌を聴くと無理やり付き合わされたカラオケを連想するから」だ。これは、さっきの「楽典」→「クラシック」の連想と同じである。演歌そのものに罪はない。

とすれば、曲名がいけないのか。イナ・バウアー作曲「ピアノ・ソナタ 第1番嬰へ短調 作品2-24」みたいなやつ。しかし、こんなのただの名前である。正確に言えば、図書館のインデックスカードみたいにほかの作品と識別するための記号のようなものである。「Out to Lunch」*2なんて訳しづらい英語タイトルよりよほどわかりやすいと思うのだが。たしかに想像力を刺激してくれないという弱みはある。もしかしたら、そこに何某かのメッセージが読み取れないことに得体の知れなさを感じるから「ウゼー」のかも。でも、そこに〈金の卵〉という副題が付いていても、事態はあまり変わらない気がする。それに〈飛行機ソナタ〉(ジョージ・アンタイル)、〈鉄工場〉(アレクサンドル・モソロフ)*3なんて少年時代に抱いたようなたくましい想像力を掻き立ててくれるタイトルの音楽が売れたなんて話も聞いたことがない。
消去法が続く。(中略)もひとつ(中略)

とすれば、残るのは、クラシック音楽の作品そのものに何か「鬱陶しい」要素が含まれているんじゃないか、ということだ。

(またまた、つづく)
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*1:――先日の註の繰り返しになるが、解釈の自由度はもちろんほかのジャンルにもある。しかしクラシック音楽の場合、音楽の構造そのものがそれを前提としている。これは重要なことだ。

*2:――ジャズ・サックス奏者エリック・ドルフィの音楽、同名のアルバムに収録されている

*3:――前者はパリの、後者はロシアのアヴァンギャルド時代(1920年代)の作品である。