雷にうたれてマーラーのハンマーの一撃について考える

某出版社に向かう途上ひどい雷雨に遭った。いちばん激しいときに外を歩いていたものだから、あまり着ることのない麻のスーツの裾がびしょ濡れになった。
それに、雷のすごかったことといったら…。地響きをあげるほどのとつぜんの雷に心臓が悲鳴をあげた。
そのとき思ったのだけど、ひじょうに抽象的な観念で生きている人間の世界や、その代補物である建築物といったものに囲まれた、というよりむしろ、観念の「内部」で生きている人間という存在にとって、雷のような外部=自然はおそろしく現実的なものであるなぁ。雷の音の驚きは、抽象的な観念の世界に突如として現実が襲いかかってきたときの恐れの感情なんだ、きっと。
雷に打たれた心臓の驚きと恐れの感情で、そのときとっさに思い浮かべたのは、マーラー交響曲第6番の終楽章のコーダの最後の一撃=カタストローフだった。高校生の頃、はじめてこの曲を聴いたときには、最後の最後でとつぜん沈黙を破って訪れる破壊的な一撃にほんとうに心臓が止まるかと思った。それ以来、この曲の最後はいつも拍子をとって身構えて聴いている。それでも、CDだと指揮者の身ぶりが見えないから演奏によってはときどきフェイントをかけられて、微妙にずれたぶんよけいにショックが大きいことがある。
マーラーはその曲で、交響曲などというひじょうに抽象的な音の構成物を媒介として人間の悲劇的な宿命なんてものを表現しようとしたわけだが、終楽章で打ちならされるハンマー(木製の大きなハンマーを板に振り下ろすという指示が3か所ー改訂版では2か所ーある)は、いくら抽象的な音の世界で悲劇を描いても、結局その悲劇はその生み出す音によって形成される内部世界での出来事がゆえに観念的なものでしかないというジレンマを砕くための、外部(現実)だったわけだ。「内部的であるが故につねに先送りされてしまう悲劇」の結末は、ハンマーのような楽音とは無縁の暴力的な一撃で、観念=内部をたたき壊すしかないということ。なるほど、そういうことだたわけか!
ひとは、外部から訪れる現実に向かい合ったときに死を迎える。

マーラー:交響曲第6番

マーラー:交響曲第6番

(註)ちょっと誤解を招きそうな書き方なので補足。――マーラーのハンマー指示は終楽章の途中にあって、最後のカタストロフではハンマーは使われない。たぶん、そこはすでに内部も外部のない決定的な破局だから?