何をしていたのかというと
こんなもので遊んで(遊ばれて)いたのだった。
●SONY:ロケーションフリー・ベースステーションLF-PK1
自宅のパソコンネットワーク環境は、書斎兼仕事部屋に入った光ケーブルがモデム→ブロードバンドルータを経由して各部屋のパソコンにLANケーブルでつながっている。
俺が自宅に戻るのはいつも深夜だから、リビングで音楽を聴いたり本を読んだりしながらi-Mac、あるいはいつも持ち歩いているWindows ノートなんかに向かい合っているわけだが、ハブを経由してノートパソコンに長いケーブルを這わすのは見てくれも悪いし、何より足をひっかけやすく、実際に何度もひっかけた。
というわけで、マウスをワイヤレスにしたこともあり(こじつけである)、ノートPCだけでもワイヤレスLANにしようと考えていたところに、渡りに船でkhimairaさんから先週、安く仕入れたのがこれ。
無線LANにもなるし、外出先でPCでテレビも見られるという優れものである。たとえ海外であっても、無線LANのアクセスポイントがつながれば日本のテレビを見られるし、自宅のビデオやDVDを操作して録画も再生もできるという。とはいえ、いまのところ、俺の場合はテレビよりもやはり外出先でもネット接続できるメリットのほうがはるかに大きい。喫茶店でPCを開いて仕事しながらでも、ちょっとした調べごとはすぐに検索にかけられる。とはいえ、ニュース番組のチェックをするつもりがザッピングしてつまらない番組に眼をとめてしまうこともあるのだが(^^;
どんなしくみになっているかは、パソコン用語は外国語よりもわからない俺にはよくわからないんだが(そのために設定には何回もつまずき、最終的にすべての機能を使えるようになるまで何日もかかった)、とにかく便利ではある。
●ELECTROCOMPANIET:パワーアンプAW100DMB
これは借り物。
釤あれじファイト”さんが売りに出すらしいので、その前に試聴させていただいている。
エレクトロコンパニエはノルウェイのメーカーで日本での知名度は低いが、ECMのスタジオではこのメーカーのアンプをモニタにしていたために(現在は知らないが)、その筋にはコアなファンがいる。マンフレッド・アイヒャーを敬愛しECMの音楽も録音も好きな俺としては、この機会を逃すわけにはいかないのである。
聴き初めて2日目だが、この音はヤバイです! 音の密度が濃いのに透明感があって、楽器の存在感が浮き立つ。ECMがこのメーカーの音をモニタにしているのがよくわかる。はっきりいって、これは、欲しいかも…。
自由になる金のないいま俺にとっては聴いてはいけなかった音かもしれない。
はじめての禁煙
なにが悲しくて禁煙なんてはじめなきゃいかんのか、客観的な根拠なんかないんだけど、とりあえず、昨晩からはじめてしまった。
まだはじめて16時間くらいだけど。
18のときからタバコを吸いはじめてるから、人生の半分以上の時間をこいつと付きあってるわけで、失恋して悲しいときも、仕事で徹夜しているときも、いつもこいつはそばにいてくれた。
タバコを吸いたいという気持ちの多くは、そんなパートナーに対する信頼と共感によるのである、と、それを自分がタバコに依存しているわけではないという言い訳にしたところで、眼と手は、自然とタバコを探している。
迂闊だったのは、明日飲み会があるという予定を考えずに、機械的に誕生日に禁煙スタート日を設定してしまったことだ。そのうえ、来週23日にも飲み会の予定が入ってきた。
自分を律するなんて意識が欠如している俺にとって、禁煙のような忍耐と持続を要するゲームは、とても旗色が悪い。
半世紀の時間感覚
ちょうど半世紀前の1957年の出来事を眺めてみる。
【学術】
チョムスキー『文法の構造』
ビンスワンガー『精神分裂病』
ハイデガー『同一性と差異』
ロラン・バルト『神話作用』
バシュラール『空間の詩学』
バタイユ『エロティシズム』
ノースロップ・フライ『批評の構造』
ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』
ショーレム『ユダヤ神秘主義』
エリアーデ『聖と俗』
ポパー『歴史主義の貧困』
丸山真男『現代政治の思想と構造』
大野晋『日本語の構造』
梅棹忠夫『文明の生体史観』
【文学】
ビュトール『心変わり』
ロブ=グリエ『嫉妬』
エンツェンスベルガー『狼たちの弁明』
カルヴィーノ『木のぼり男爵』
ケルアック『路上』
F.K.ディック『宇宙の眼』
石川達三『人間の壁』
井上靖『天平の甍』
松本清張『点と線』
大江健三郎『死者の驕り』
天川退二郎『道道』
【政治】
岸内閣成立
日米安全保障委員会発足
【映画】
『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル)
『灰とダイアモンド』(ワイダ)
『野いちご』(ベルイマン)
『OK牧場の決闘』(フォード)
【音楽】
メシアン『鳥のカタログ』
マデルナ『2次元のための音楽』
バーバー『ヴァネッサ』
武満徹『弦楽のためのレクイエム』
20世紀音楽研究所設立(吉田秀和、柴田南雄、入野芳朗、黛敏郎、一柳慧ほか)
シベリウス没
コルンゴルド没
トスカニーニ没
デニス・ブレイン没(追加)
そんな年のきょう、中学校の社会科教師の父親と専業主婦の母親というごく平凡な家庭で俺はうまれた。
「これはギャグではない」
納豆の集団ヒステリーといい、きょうのこのニュースといい、笑かしてくれる。
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070115k0000m040085000c.html
「具体的に何をするのかは『高校や地域の清掃、校内のトイレ掃除』といった程度の議論しかされていない。」
って、正気で議論してるんだろうか。校舎の掃除やトイレ掃除なんていう、生徒が日常的に自分たちの責任においてやるべきことに、「公共性」とか「奉仕」なんて大義名分をつけることの無邪気さはほとんどギャグだし、縦しんばそれを容認したとして、その先にあるのは、なし崩しの全体への奉仕というわけで。けっきょく、この過程のどこにも「個」という価値観が介在していないんだよな。
だったら、最初から「徴兵制導入!」なんて脅しをかけたほうが、よほど「公共性」とか「奉仕」とか「国家」なんて問題を個人として考えるだろうに(もちろんこれもギャグだ。国民的な議論になるときには、状況はもっと先に進んでるから)。
個人としてまともに論じるための土俵のないところでは、情報はパロディとしてしか機能しないのかも知れない。
【追記】
パロディといえば。例の2ちゃんねるのドメインの差し押さえ騒動だけど、http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=144462&media_id=16
「論理的に可能」ならやったほうが第三者的にはおもしろいね。相手は当初から「何もしない」を決め込んで、さらにすべての状況をパロディ化してるわけだから、パロディを返してやればいい。裁判そのもをパロディとして演出すれば、ひろゆき氏のパロディは成立しないから。というのも論理的な可能性の問題で、そんな金はだれも使いなくないだろうしね。
幹事会/納豆のない日々
5年に一度、中学校の同期会があって、今年がその3回目の年にあたるということで、新年早々その幹事会が昨晩あった。9クラスもあるとそれなり準備も必要で、今年はこういう幹事会(という名の飲み会)も増えそうだ。
各クラスからの幹事だけでも20人くらいいるが、その半数が集まっただけでも、じゅうぶん気持ちは中学生に戻る。共有した時間の短さと半比例するように、その後のはるかに長い時間が消えてゆく感覚。それも毎回のように。「ここでは時間が空間に変わる」とは《パルジファル》のグルネマンツがパルジファルに語ることばだが、長い時間が人と人のその場の接触で中学生のころの空間に変容するみたいな。不思議なものだ。
話はうって変わるが、俺は納豆が好きだ。mixiのプロフィールでも書いているように、人生のいちばん最後に食べたいご飯のおかずの筆頭も納豆なのだ。
ところが、この1週間納豆が買えない。いつスーパーに行っても売り切れ。きょうも納豆売り場だけがポカンと間抜けなくらいきれいに空いていた。先日など、俺の前のオバンが、10個ほど残っていた納豆を全部カゴにつっこんでしまい、俺が買うぶんがなくなってしまった。
この憂き目の原因はもちろんこいつだ。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=142405&media_id=2
俺はこの日の放映は見ていなかったが、オイルショック時のトイレットペーパー以来の品不足の光景を見ると、その過剰なまでの大衆心理に薄ら寒くなる。どうせ、一時的なものでしかないことはわかっているが、この現象が「美しき日本」というプロパガンダと妙にリンクしている様な気がしてならない。ダイエットがブームになるのはわかる。しかし、このブームが個人の選択ではなく、妄信的な熱狂に支えられているところが気に入らない。
ところで、関西でも納豆は品切れなのだろうか。